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当たり判定ゼロ シューティング成分を多めに配合したゲームテキストサイトです

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デジタル派のグリーンマイル

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天鳳でようやく七段になり鳳凰卓までこれてちょっと嬉しいという出来事があったので、いい機会として自分の麻雀観みたいなものを書いておかねばと思いまして。

 

麻雀というゲームは選択のゲームと言われますが、正確には「『選択する』そんな言葉は使う必要がねーんだ。なぜなら卓に着く前に選択はもう既に終わってるからだッ」というプロシュート兄貴的な世界観を内包したゲームなんですよね。

プレイヤーは状況に応じて打ち方を変えますが、それはその場その場で個別に選択されるものではなく、「この状況であればこう動く」という自分自身が確立したルールに基づいて動いているだけです。
牌の取捨選択におけるルールは個々のプレイヤーに依存しています。

つまり、選択は対局の前に全て完了しており、対局中の判断に人間が介在する余地って一切ないと思うんですよ。人間はルールを構築するだけで麻雀そのものに関与することは何一つありません。
今人間が麻雀と称して遊んでいるゲームは、どちらが長期的に良い収支を残せるルールを作れたかを競う、ルール構築そのものが本質です
繰り返される自摸行為そのものは、そのルールの優劣を実証する実験部分にしか過ぎなくて、いわば設置されたベルトコンベアに並んでお刺身にたんぽぽを乗せる仕事みたいなもんです。

 

かつて、伊集院光がラジオ『深夜の馬鹿力』の中で、「パワプロのサクセスモードで選手を作って、それをオートペナントで回して遊ぶ」という遊びをやっていましたが、麻雀というゲームはそれに近いです。ロボット全国大会みたいな、事前にプログラムを組んだロボットが戦うのを見守るトーナメントみたいなのもありますけど、ああいうのにも近いんじゃないかなと。

いずれ『プレイヤーが事前に構築したプログラム同士を戦わせて、1万戦ほど演算してどちらが勝つかを競う』みたいな遊び方にみたいなのも出てくるんじゃないかなぁと思いますね。

 

そういう意味では、デジタル派とオカルト派の対立なんてものがありますけど、デジタル派の末路というものはかなり哀愁性に満ちたものになるんじゃないかなぁというイメージを持っています。
デジタル派はコンピューターに殺されるためのグリーンマイルを歩いているようなもので、最後には「コンピューター様の猿真似を愚かな人間がいかに上手くできるか」を競う競技になってしまい、わりとディストピア感の炸裂する光景が広がってしまうわけで。

となると、我々に救いとして差し出されるのは、咲-Saki-において部長の言った「じゃあ、あなたはたった1回の人生も論理と計算ずくで生きていくの?」の一言しかないのかなぁと思うのですが、これ真に受けるとバカみたいに負けるから要注意な。私は大変なことになった。
デジタルが終わったからと言って麻雀は負けを前提とすることは許されないし、かと言ってコンピュータには勝てない。ならば『小島武夫の三色』みたいに個性に走るしかないのかなぁというのに麻雀のどん詰まりを見ていて。

 

最後に、一度リアルで麻雀打っていたとき、オーラスの海底牌だけを残した状態でカン八萬のオープンリーチをかけ、「俺たちはそこに八萬が存在するために自摸を繰り返しているんだ。違うか?」と高らかに宣言したら本当に持ってきてしまい「あ……えっ……あっ、ツモ……リーチ、オープン、一発、ツモ、ハイテイ、ドラ1、ウラ、ウラ……、まくりましたねwwwドゥフフwwwドゥフフwwwww」みたいなことになったことがあるのですが、わりとコレが私にとっての麻雀という競技を総括した全てが詰まったツモなんですよね。

麻雀は最適解が見つかっていない今が一番面白い時代なんだろうなぁと。
デジタル派がコンピュータによって絞首刑にされてしまった日、遺されたオカルト派はいつもどおり自摸を繰り返すでしょう。
今日も1万回に1回のドラマを求めて。

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