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ジェーンズという一人の男


名所度:★★★☆☆
混雑度:☆☆☆☆☆

昨日ジェーンズ邸を訪問して、感銘を受けたのでレポ。
ジェーンズってWikipediaにも項目ないのね。家に帰って調べようとしてがっかりした。札幌のクラーク博士と比べて冷遇されすぎ。

L.L.ジェーンズ(1838~1909)

◇ 来日前
アメリカ合衆国オハイオ州生まれ。ウエストポイント出身の陸軍将校として南北戦争に従軍している。
戦後は農耕をして暮らしていたが、横井大平(横井小楠の甥)に洋学校の教師を紹介して欲しいと頼まれたフルベッキによって紹介され、34歳で来日。

◇ 熊本洋学校教師時代
明治4年9月~明治9年9月の間で教鞭を取る。授業は全て英語で行われ、数学や物理をはじめとした20以上の教科を一人で教えた。議会政治を見越して演説練習も始めさせた。
また、日本ではじめて男女共学を始めるなど平等主義の気風をもたらした。しかし、成績不優秀の者には退学を示唆するなど厳しいところもあったようだ。

ジェーンズは教育だけでなく地域社会への啓発活動にも尽力し、以下のようなものをもたらした。

    • キャベツやカリフラワーなどの種子を西洋から取り寄せ、栽培
    • 国産小麦粉作りに成功し、パンの製造を行った
    • アメリカより西洋鋤を取り寄せる
    • かんきつ類栽培の技術を導入
    • 自動化された印刷機をはじめて熊本に輸入
    • 牛乳や牛肉を食べる文化をもたらし、壊血病を治す

ジェーンズは真摯なプロテスタントであったため、キリスト教普及にも尽力した。結果、ジェーンズに感化されキリスト教に入信した若者たちは熊本バンドを結成(北海道でクラーク博士に感化された人々は札幌バンドと呼び、区別する)。

だが、キリスト教布教は保守的な県民から反発を受け、ジェーンズは5年で熊本を去る。熊本洋学校も明治9年閉鎖された。熊本バンドの一部は同志社英学校に編入。その後、ジェーンズは大阪英語学校で明治11年まで教鞭をとり、帰国した。

なお、熊本洋学校卒業生の主な著名人は以下の通り。

    • 徳富蘇峰(国民新聞創設者)
    • 小崎弘道(同志社大学第2代目総長)
    • 横井時雄(同志社大学第3代目総長、衆議院議員)
    • 下村孝太郎(同志社大学第6代目総長、住友化学(株)設立)
    • 原田助(同志社大学第7代目総長)
    • 海老名弾正(同志社大学第8代目総長)
    • 石光真澄(エビスビール支配人)
    • 市原盛宏(朝鮮銀行総裁)

◇ アメリカ帰国後
貧しい生活を送り、住所を何度か変えるが、最後はサンフランシスコに居を構える。
72歳にてその生涯を閉じた後は、遺言により土葬ではなく日本の文化である火葬にて葬られ、ライト山に散骨された。

◇ ちなみに
ジェーンズが去った後のジェーンズ邸は西南戦争の折、有栖川宮織仁殿下の宿舎として使用された。有栖川宮は博愛社を創設し、10年後に日本赤十字社となった。ジェーンズ邸は日赤発祥のセレモニーの地であり、現在2階には日赤関係の資料が展示されている。

 

最後に。
わざわざ時間を割いて説明してくださった館長さんありがとうございました。
しかし、ラストサムライのモデルはどうも違うっぽいのですが、どうなんでしょう。

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